見られる・見れる・見える

上で「見れる」を多用して、Liejuさんの日記(id:Lieju:20050622)を思い出した(笑)。あんまり考えたことなくて自然に使ってたけど、自分の感覚を考えてみることに。
<「見られる」と「見れる」>
「ら」ありだと、受け身、自発、尊敬、可能の意味として使用されるところを、ら抜きにすることで可能の意味をわかりやすくするという感覚みたい。「ら」ありが正式だけど、私的には「ら」ありには違和感。正式な文章を書くときには入れとくけども。あ、でもやっぱりなんか違和感で「見ることができる」って書いてるかも、そういえば。
<「見(ら)れる」と「見える」>
「見える」は自然に、また無意識的に目に入る状態、「見(ら)れる」は能動的に見ようとして見ることのできる状態。うまく説明できないけど使う感覚違う。そんなところかなぁ・・・。
【追記】
例が思いついたので。
上野動物園ではパンダが見(ら)れる。
上野動物園ではパンダが見える。
私的ニュアンスだけど、①だと「上野動物園に行けばパンダを見ることができる」って感じだけど、②だと怪奇な感じが。上野動物園を歩いてたらふらりとパンダが現れて視界に入ることがある、みたいな。・・・やっぱりあまりいい例じゃなかった。日本語って改めて考えると難しい。でもこういの気付くのは面白いな。